高島平の看板アートの物語。

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こんにちは。
編集長のちゅうぞうです。

ある日、いたばしTIMES宛にメッセージが届きました。

高速下の看板、もう40年近く前に、警察署に頼まれて父が描いたものです。

以降、ほぼ原文のまま
高島平にある2つの交通安全の看板を知っていますか?

ジェームズ・ディーンの看板は地図ではここ↓

首都高下の「高島大門」の信号のところ。

バイクの看板は地図ではここ↓

板橋区高島平1-11。

きっと地元の人にはお馴染みだと思います。

メッセージは、この看板を描いた方のご息女からでした。

看板の文字のラフな文字、父の筆だなぁと懐かしいです。

その後、メールでやりとりをさせていただいたのですが、その内容になんだか熱くなるものを感じました。

許可をいただいたので、地域の皆さんにシェアさせていただきます。

※記事は下に続きます

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父は、十代から30代まで、映画看板を描いていました。

のちに当時を知る撮影所の方などから、映画看板では東京一だったと言われましたが、父から当時の仕事の話を聞いたことはほとんどありません。

ところどころ上塗りされているらしく、ピーポくんのイラストはのちに足されたもの。

父は、破天荒でちゃっかりしたところのある人で、人前ではふざけた話ばかりして皆を笑わせていました。

40歳で独立し、その後は、看板であれば何でも引き受けていました。

大酒のみで、金銭感覚もルーズ、父親らしい人ではありませんでしたが「仕事が好き」と言い、どんなきつい仕事でも楽し気に、大工仕事から運搬までしていました。

また、文字が好きだったか、暇さえあれば漢和辞典を見ていました。

もとは、デパートや美術館での展覧会に使用される説明文などの明朝体やゴシック体。会合などの式次第の楷書、舞台で使う勘亭流まで、何でも器用に書きこなす人でした。

オートバイの人の顔は、お父さまが描いたものとは違っているそうです。

52歳で脳梗塞で倒れ、明らかな後遺症はなかったものの体力の衰えもあり、リタイヤ。

その後は、マイペースで頼まれた仕事を受けていました。

昔の仲間から頼まれて、テレビ番組や舞台の背景も描いていましたが、だんだんと手描きの仕事もなくなり、

80歳までは、気ままにですが、息子の印刷看板の手伝いをしていました。

※記事は下に続きます

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この看板を書いたのは、60歳前後の頃だったかと思います。

父は、4年前、89歳で亡くなりました。

そろそろ撤去されるんじゃないかと思いながらも、通りがかるたび「まだ使ってるなあ…」と感心しながらながめていた看板が、どんな形にせよ皆さんに関心を持っていただけること。面白くもあります。

父もあの世で知ったなら、苦笑いしていることと思います。

これらの交通安全看板、いずれは撤去されると思いますが、ネットなどを通して、多くの人の記憶に残されていくことはうれしく思います。

通るたびについ引き込まれるように見てしまうこの看板。

年季が入ってるなあと思っていましたが、40年近くも前に描かれたものだったんですね。

制作者とそのご家族のストーリー、この看板を残し続けた地域の方の思い、面白がる通りすぎる人たち。

自分がその接合点に遭遇してしまったような気持ちになりました。

次にこの看板の前を通る時には、いろいろな思いを巡らせながら眺めてしまう気がします。


※ご家族様、情報提供をありがとうございました!